1985年11月 原宿の代々木オリンピックプール、ステージ上の尾崎豊が繰り返し叫ぶ「自由になりたくないかい?」マイクが客席にむけられ、オーディエンスの歓声が広がる…初めて観た尾崎豊のコンサート、高校の同じクラスで尾崎ファンだった角さんと「どっちが尾崎について詳しいか」を自慢しあいながら千葉から2時間かけてここまで来た。そんな小競り合いは、会場に集まった1万5千人の自分達と同じような自意識過剰な若者の熱気を前にしぼんでしまったが、ライブが始まってしまえばそんな気持ちも吹き飛び、思い入れのある曲を一緒に歌える快感に心酔していた…で、冒頭の言葉だ「自由になりたくないかい?」自由?前の席で体を揺らしていた髪の長い男が拳を高くかかげ「オーーッ!」と応える。自由?女の子のかなきり声が響く「オザキーー!」。自由?自由ってどんな?例えば、好きな時間に好きな女の子と好きなだけ電話してられるとか、好きなものを好きなだけ食べられるとか、学校行かなくていいとか、家族と離れてひとりで暮らすとか…そういう状態になりたいかい?って聞いてるんだろうか?そりゃ「好きなものを好きなだけ食べたいか?」と聞かれれば、前の席の長髪男と一緒になって「オーーッ!」と拳を上げるのもまんざらではないけど、自由って…自由ってどんな?

尾崎豊に限らず、彼の登場と前後して現われたメッセージ色の強い歌詞を扱うアーティストや、その後のバンドブームの中でも「自由」という言葉は多く使われた。しかし、ボクはこの単語を耳にするたびに頭をひねっていた。自由…例えば、上に書いたように自分のワガママがいくらでも通る状態のことを「自由」と呼ぶのであれば、ボクはそれを強くは望まない。だって、世の中みんながワガママに暮らす世界は酷いものであろうから…欲しいモノを奪い、不要なモノを捨て、じゃまなモノを殴る…それは、奪い捨て殴るのと同時に、奪われ捨てられ殴られる事を意味しているから。

はじめて2ちゃんねるを見た時「これだ」と直感した。「これが自由な世界だ」と…夢見がちなアーティスト達が歌ったキラキラした世界ではなく、ボクが想像した自分のワガママがいくらでも通る世界…汚い言葉の羅列が剥き出しの欲望を唱え、嘘や陰口がまかり通り、たいそうな理屈を語ってたかと思えば矛盾を指摘された瞬間に口を閉ざし議論さえ成立しない。そんな世界がここに実在している…もし今、尾崎豊が生きていて2ちゃんねるを見たら何を思っただろうか?自分のスレッドに並ぶ煽り文句の数々に落込み「便所の落書き」と切るだろうか?インターネット空間の片隅で怪しく息づく文字達に、かつて自分が求めた自由を見い出す事ができるのだろうか?

ボクにとっては「歌」が与えてくれた自由・自由な世界というものへの複雑な感情だが、長い歴史の中で多くの人が例えば「小説」から、例えば「映画」から得てきたのでは?と思う。しかし、そのほとんどの人は自由に触れることなど出来るわけもなく、夢や想像の中で思い描く事しかできなかったのだ。でも今、我々はインターネットという空間を通じて、言葉という自分の意志を自由な世界に投じるころができるのだ。そう、これは極めて特殊な事態…そんな事を考える時、ボクはつい妄想してしまう「2ちゃんねるを管理しているひろゆきという人は、実験してるんじゃないかしら?」と…自由な世界を実在させたら、それは地獄になるのか?それとも天国になるのか?両方が入り乱れて安定した状態が作り出されるのか?大昔から偉大な哲学者をはじめとし誰もが妄想したであろう壮大な実験を、インターネットという空間の中で行い、それを観察しているのでは?これほど大層な目的があるのなら、彼が色々な事を犠牲にしながらも2ちゃんねるを守り続けている理由として納得できる。

あの夜、尾崎豊はステージで言った「笑いたいやつは笑え、俺を信じるやつはついて来い!」先頭で旗を降り、駆け抜けてった尾崎はそのまま時代のクレパスに転げ落ちてハゲタカのエサになった。尾崎の叫びにノリ切れなかったボクは、燻った気持ちを抱えたまま大人になり、薄暗い部屋でパソコンのモニターを凝視している。馴れ合い…殺伐…多くの流行廃りを経て変化し続けるこの実験の場を、できる限り理解し、できる限り記憶して、機会があったらあの世で尾崎に教えてやりたい「1985年11月 代々木オリンピックプール、あの時アンタが言ってた“自由”ってやつ…オレ見てきたよ」

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